ファッションが好きな人なら、一度は「マルジェラ」という名前を聞いたことがあると思います。白いタグに4つの白いステッチ、足袋のように指先が分かれたタビブーツ。どれもひと目でわかるアイコンなのに、それを作ったデザイナー本人の顔は、ほとんど誰も知りません。
マルタン・マルジェラは、雑誌の写真撮影にもインタビューにも応じないまま、約20年のあいだにファッションの常識をいくつもひっくり返し、静かに表舞台から去っていきました。
この記事では、そんなマルタン・マルジェラという人の生い立ちから、メゾンの立ち上げ、エルメスでの仕事、そして引退してアーティストになった今までを、順番にまとめていきます。アントワープの6人の記事の続きとして読んでもらえるとうれしいです。
マルタン・マルジェラのプロフィール
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | マルタン・マルジェラ(Martin Margiela) |
| 生まれ | 1957年4月9日、ベルギー・リンブルフ州ヘンク |
| 学校 | アントワープ王立芸術アカデミー ファッション学科(1979年卒業) |
| 経歴 | フリーランスのデザイナーを経て、ジャン=ポール・ゴルチエのアシスタント(1984〜1987年) |
| ブランド | 1988年、ジェニー・メイレンスとともに「メゾン マルタン マルジェラ」を設立 |
| エルメス | 1997〜2003年、レディースのプレタポルテを担当 |
| 引退 | 2008年の20周年ショーを最後に、2009年にメゾンを離れる |
| 現在 | アーティストとして作品を発表 |
生い立ち:おばあちゃんの横で覚えた服づくり
マルジェラは1957年、ベルギー東部の街ヘンクで生まれました。
2019年のドキュメンタリー映画『マルジェラが語る“マルタン・マルジェラ”』では、仕立ての仕事をしていたおばあちゃんから受けた影響や、7歳のころにバービー人形の服を作っていたことが、本人の言葉で語られています。小さいころから、服を「作る」ことがすごく身近だったんだなと感じます。
アントワープ王立芸術アカデミーと「7人目」と呼ばれる理由
その後マルジェラは、アントワープ王立芸術アカデミーのファッション学科に進み、1979年に卒業します。ウォルター・ヴァン・ベイレンドンクやドリス・ヴァン・ノッテンたち「アントワープの6人」とほぼ同じ時期に、同じ学校で学んでいました。
ただ、6人が1986年にロンドンへ乗り込んで名前を広めたとき、マルジェラはそこに加わっていません。すでにパリで自分の道を進んでいたからです。そのため6人には数えられませんが、同じ時代のアントワープから出てきたデザイナーとして、「7人目」と呼ばれることもあります。
アントワープの6人については、こちらの記事でまとめています。

ゴルチエのアシスタントとして学んだパリ時代
卒業後のマルジェラは、しばらくフリーランスのデザイナーとして働いたあと、1984年にパリへ移り、ジャン=ポール・ゴルチエのアシスタントになります。
ゴルチエといえば、当時のパリでいちばん勢いのあった「アンファン・テリブル(恐るべき子ども)」。マルジェラは1987年までここで働き、パリのファッションの現場を内側から学びました。
1988年、メゾン マルタン マルジェラの誕生
1988年、マルジェラはブリュッセルでセレクトショップを営んでいたジェニー・メイレンスと一緒に、「メゾン マルタン マルジェラ」を立ち上げます。
最初のショーは、同じ年の10月に発表された1989年春夏コレクション。会場は、パリ・マレ地区の小劇場「カフェ・ド・ラ・ガール」でした。ファッションショーとはあまり縁のない場所を選んだところからも、「普通のやり方はしない」という空気が伝わってきます。
赤い足あとを残したタビブーツ
このデビューショーでお披露目されたのが、今もマルジェラの代名詞になっている「タビブーツ」です。日本の足袋(たび)のように、つま先が親指とそれ以外に分かれた形のブーツです。
マルジェラは、モデルの靴底に赤いペンキを塗って、白いランウェイを歩かせました。新しい靴に気づいてもらうには、その足あとを見せるのがいちばんわかりやすい、という考えだったそうです。足あとがついた白い布は、のちにベストに作り変えられ、次の1989年秋冬のショーの最初のルックとして登場しました。
映画『マルジェラが語る“マルタン・マルジェラ”』の、タビブーツについてのシーンです。
映像:YouTube(Dogwoof)
デビューショーの様子は、ファッション解説で人気のBliss Fosterさんの動画でくわしく紹介されています。
動画:YouTube(Bliss Foster)
子どもたちが招待状を描いた、空き地のショー
その後のショーも、場所選びはとことん型破りでした。1989年秋に発表した1990年春夏のショーの会場は、パリ20区の荒れた空き地の遊び場。招待状は近所の子どもたちが手描きし、その子どもたちが最前列に座ってショーを見ていたそうです。
でこぼこの地面の上を、モデルたちはつまずきながら歩き、服の袖は破れ、裾はほつれたまま。きれいに整えられた「パリコレ」のイメージとは、まったく逆の景色でした。
顔を見せない、名前も出さない「匿名性」
マルジェラのいちばん有名なエピソードは、やっぱり「顔を見せない」ことだと思います。1988年にメゾンを始めてから、雑誌のための写真撮影にも、対面のインタビューにも一度も応じていません。メディアからの質問には、ファックス(のちにメール)で、しかも「私」ではなく「私たち」という言葉で答えていました。
ショーのあとに、デザイナーがランウェイに出てきてお辞儀をすることもありません。主役はあくまで服で、それを作ったのはチーム全体だ、という考え方です。
本人の写真はほとんど出回っていないので、ここでは1989年のマルジェラを描いたイラストを紹介します。

服のタグにも、その考えが表れています。初期のタグは、何も書かれていない真っ白な布。それを服の内側に、4つの白いステッチだけで留めていました。外から見えるのは、背中の小さな4つの縫い目だけ。ロゴを見せるブランドが多かった時代に、名前を消すことが、逆にいちばんの目印になったんです。
1997年からは、0から23までの数字が並び、そのアイテムが属するラインの数字に丸がつけられたタグも使われるようになります。この数字の意味については、ブランド編の記事でくわしく紹介しています。
この匿名性は今のメゾンにも受け継がれていて、2026年秋冬のキャンペーンのタイトルは、そのまま「ANONYMITY(匿名性)」。最初のショーからマスクを使ってきたことを、メゾンの大切なコードだと説明しています。
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古いものを作り変える:マルジェラの名作コレクション
マルジェラは、新しい服をゼロから作るだけでなく、すでにあるものを作り変えることで、服の見方そのものを変えていきました。代表的なものを、時代順にいくつか紹介します。
| 時期 | コレクション | どんなもの |
|---|---|---|
| 1989年ごろ | 割れたお皿のベスト | 割れた陶器のお皿をつなぎ合わせて作ったベスト。のちの「アーティザナル」につながる、作り変えの代表作 |
| 1994年秋冬 | 人形の服 | 人形用の服を、人間が着られるように5.2倍に拡大して作ったコレクション |
| 1994年秋冬 | レプリカ | 古着のピーコートや白衣などを、そっくりに作り直したシリーズ。もとになった服の年代や国がタグに書かれている |
| 1997年春夏 | ストックマン | 仕立てに使うボディ(トルソー)の形をそのまま服にしたような、作りかけに見えるジャケットやベスト |
| 2000年秋冬 | オーバーサイズ | 普通のサイズの服を、そのまま特大サイズに引き伸ばしたコレクション |
| 2009年春夏 | 20周年 | マルジェラが最後に関わったショー。これまでの代表作を振り返る内容 |
古着や軍物、日用品を解体して一点ずつ作り変える手法は、のちに「アーティザナル(ライン0)」として、メゾンのいちばん大切なラインになっていきます。
マルタン期のアイテムは、今は古着でしか手に入りません。初期の真っ白なタグのアイテムは「白タグ」と呼ばれて、人気があります。
エルメスのデザイナーも務めた6年間(1997〜2003年)
1997年、40歳のマルジェラは、フランスの老舗エルメスで、レディース・プレタポルテのクリエイティブ・ディレクターに任命されます。「脱構築」のイメージが強かったマルジェラが、エルメスという正統派のブランドに選ばれたことは、当時かなり驚かれたそうです。
エルメスでのマルジェラは、自分のメゾンとはまったく違う、静かで上質な服を作りました。くるくると丸められるジャケットや、襟を取り外せるコート、時計「ケープコッド」の2重巻きレザーストラップ、ひし形のスカーフ「ロザンジュ」など、今も愛されているアイテムがこの時期に生まれています。
2003年にマルジェラがエルメスを離れたあと、後任になったのは、なんとかつての師匠ジャン=ポール・ゴルチエでした。この時期の仕事は、2017年にアントワープのモード美術館(MoMu)で開かれた展覧会「Margiela, The Hermès Years」でも紹介されています。
2008年、20周年のショーを最後に静かに去る
2002年、メゾン マルタン マルジェラは、ディーゼルの創業者レンツォ・ロッソが率いるOTBグループの傘下に入ります。マルジェラはその後もクリエイティブ・ディレクターを続けました。
そして2008年10月、メゾンの20周年を記念したショー(2009年春夏)が、マルジェラにとって最後のショーになりました。同じ年、アントワープのモード美術館では、20周年の展覧会「Maison Martin Margiela ‘20’ The Exhibition」も開かれています。
2009年12月、マルジェラが正式にメゾンを離れたことが伝えられます。引退会見のようなものもなく、最後まで顔を見せないまま。ドキュメンタリー映画では、51歳での突然の引退として描かれています。
引退後のマルジェラ:アーティストとしての今
ファッションの世界から離れたあと、マルジェラはアーティストとして作品を作り続けています。
2018年には、パリのガリエラ宮(パリ市立モード美術館)で、1989年から2009年までのコレクションを振り返る大きな回顧展が開かれました。
2019年には、ライナー・ホルツェマー監督のドキュメンタリー映画『マルジェラが語る“マルタン・マルジェラ”』が完成し、日本でも2021年9月に公開されました。本人が制作に協力した初めての映画ですが、画面に映るのは手元だけで、顔は最後まで映りません。ちなみにホルツェマー監督は、ドリス・ヴァン・ノッテンのドキュメンタリーも撮った人です。
予告編:YouTube(UPLINK)
そして2021年10月には、パリのラファイエット・アンティシパシオンで、アーティストとして初めての個展が開かれました。人の髪の毛で覆われた球体や、ほこりの粒を大きく描いた絵など、40点以上の作品が並びました。
マルジェラが去ったあとのメゾン
マルジェラが離れたあと、メゾンはしばらく名前を出さないデザインチームで運営され、2014年にジョン・ガリアーノがクリエイティブ・ディレクターに就任しました。翌2015年には、ブランド名から「マルタン」が外れ、今の「メゾン マルジェラ」になっています。
ガリアーノは2024年12月にメゾンを離れ、2025年からは、同じアントワープ王立芸術アカデミー出身のベルギー人デザイナー、グレン・マーテンスがクリエイティブ・ディレクターを務めています。2026年9月には、マーテンスがディーゼルを離れることも発表されました。マルジェラでの仕事は、これからも続きます。
時代ごとのデザインの違いや、タビブーツなどの名作アイテムについては、ブランド編の記事でくわしく紹介しています。

まとめ
マルタン・マルジェラは、顔も名前も前に出さずに、「服とは何か」を問い続けたデザイナーでした。古着を作り変えたり、タグから名前を消したり、ショーの会場を空き地にしたり。そのどれもが、今のファッションにしっかり受け継がれています。
僕もマルジェラのアイテムを持っているので、写真を撮ったら、ブランド編の記事で紹介させてください。気になった人は、まずは古着で、マルタン期のアイテムを探してみるのもおすすめです。
アイキャッチ画像:Max Ronnersjö(CC BY-SA 3.0、トリミングして使用)/Wikimedia Commons


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